@article{oai:repository.lib.tottori-u.ac.jp:00001648, author = {能勢, 修一}, journal = {鳥取大学学芸学部研究報告. 教育科学, The liberal arts journal. Educational science}, month = {Nov}, note = {井沢修二の新体操実施についての書簡、或は大阪中学校の体育館の設備等によって、伝習所の体育館の概略は推定される。これによって、リーランドが日本に紹介した体操の中には、新撰体操所、新制体操法にみられるような軽体操(リーランドによるとルイスの New gymnastics という)の外、おおくの重体操も行ったと考えられる。リーランドによれば”器械運動並多力ヲ要スル所業ヲ以テ軽体操ニ代用スルモ其用所ニヨリテハ亦可ナルベシ” としているので多力運動すなわち重体操を全面的に否定しているのではない。この重体操としては" 平桿、斜梯、平梯、鞦韆、列環、栓梯、栓柱、木馬、滑板、縋、平行桿、直立桿、強腕器、験力器、張胸器、平行繁桿、並列直棒" 等による運動であって、これ等の器具の大部分は大阪中学校の体育館に設けられている。伝習所の記録1884年(明治17年)によると、" 体操の内容として軽運動、戸外運動、重運動、操櫓術、歩兵操練(基本運動、生兵、小隊)とし、このうち戸外運動、重運動、操櫓術は必修とせず適宜実施すること" になっているが、この年代ではすでに我が国に適した体操の主教材は軽体操と主体操と決定されていたので、重体操は必修とされなかったであろう。しかし、中学校(6か月制)の上級学年では重体操が取り上げられている事を見逃してはならない。なお、これ等の重体操はアメリカで移入したドイツ体操(Turnen) の系統であり、一方、この重体操に批判的であったルイスの新体操(New Gymnastics) が、伝習所で行われ、この両体操のうち、先ず軽体操が日本に適した体操として採りあげられ、長らくそれが体操の主流をなしたことは注目すべきである。}, pages = {134--149}, title = {体操伝習所体育館の考察}, volume = {4}, year = {1962} }